世界史の知識が、20年越しに仏教と握手した日

無駄なことなんて何一つない
最近本当にそう思う

だらだら見るテレビやtiktokはさすがに…
とはいえ、時間はもったいないけど無駄ではないかもしれない

全ては自分次第

よく学校の勉強なんて意味がないって言われる
自分自身、学んでる時は意味を考えたことは何度もあったけど、結局意味わからなかった
でもよく考えたらそりゃそうだ
意味があるかどうかは勉強してるだけじゃ分かるわけがないし、分かったとしてもそれは想像の範疇を出ず、分かったつもりかもしれない
社会に出て、いろんな経験をして、人生がどんなものかぼんやりとでも見えてきた時にはじめて、ようやく意味があるかないか、分かるのかもしれない(分からないかもしれない

勉強する意味を広辞苑で調べたって出てこない
そういう意味での”意味”は辞書には載ってない
意味付けって自分でするものだし、自分じゃないと出来ない

他人の意味付けではいけない、参考にしてもいいけど、最終的に自分の辞書に載せるときは自分の手で書かなくちゃいけない(書き初めみたいに、見本として他人のを横に置いて丸写しでも、自分がいいならそれでいい)

ああ、あの頃もっと勉強しておけばよかった
タイムマシーンで過去に戻れるならもっと勉強しておけって言いたい

よく聞くことばだ
でも、実際それは叶わない

今のわたしは過去へも未来へも行けない
今を生きることで精一杯だ
でも、それはそれで大事な気づきなんじゃないかなって思う

もっと勉強しておけば
足らないことに気づいた
それを機に今から遡って勉強するもよし
それを機にこれから勉強する機会があれば一層集中して取り組むもよし
それを機に悶々とした想いだけを抱えて今までと変わらぬ生き方をするもよし
どれも自分でした意味付け

三番目が良くない決断のように思うが、あながちそんなこともない
人間、みな時間は平等だし、有限である
だから全部を巧くやりきることは不可能

「自分の人生には必要のないことだ」と自分で意味付けしたことを棄てることは英断だ
自分で決断したなら、それぞれの判断はどれも尊重されるべきだ

なんでこんなことを書こうかと思ったかと言うと、今日、仏教について深く知る機会があった

目から鱗だった

今知ってる仏教が、日本に広く流布されてる仏教が、お釈迦さまの本来の教えじゃなかっただなんて

その感銘を受けられたのは間違いなく、わたしが高校のとき世界史が好きだったしものすごく?それなりに?勉強してたから、ついでに倫理も好きだったから、(特定の何かでなく)宗教全般にとても興味があったからだと断言できる

その素地無しに、今日聞いた話を聞いても、たぶん眠くなるだけだ(教えてくれた方ごめんなさい)

大乗仏教の話が出れば「じゃあ小乗仏教は?」と返せて、大乗仏教とは物語でと言われれば「確かにキリスト教もイスラム教も物語だ」とつながる

阿弥陀様の本来説いた教えは他力ではなく自力
仏様に祈ってよくしてもらおうではない
でも日本に伝わるまでに祈りと他力に変わってしまった

阿弥陀様の教えは箇条書きで、ぶっちゃけ面白いものではないらしい
もしかしたらそのままだったらここまで広まらなかったのかもしれない
多少間違ってても広まったことを喜ぶべきか、間違わずにひっそりたたずむ宗教であった方がよかったのか

それは分からない
でも結局宗教って何のためにあるかと言えば、善く生きるためにどうするか、その指針をくれるものだと思ってる
人間は弱い
すぐ心が折れる
一人で頑張れない
だから、目に見えて、形があって、こうしたらいいですよ、という教えがある
それが宗教だとわたしは思ってる(違ったら教えて)

オウム真理教とか統一教会とか、私腹を肥やすために「宗教」を騙った非常識のせいで、宗教それ自体が「ヤバイもの」みたいに思われちゃってるのが、わたしは非常にかなしい

みんな幸せになる権利があるし、幸せに生きたいはずだし、全員の願いが叶ったらいいなと思う

そんなことを考えた一日でした

お時間いただいて仏教の教えを説いていただいて、ありがとうございました。

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